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 おいもだより裏面 三田照子さん    2016年10月12日(水)  [おいものせなか通信]

 
            戦争だけは、絶対にやってはいけない
                                               2016.10.10

    人の一生はどの人にとっても冒険旅行だと言っている人がいました。予想もしない
   生活が待っています。出会う人も様々であります。「冒険の中から幸せをみつけて、それ
   をおこなっていくのがお前の役目だよ。どんな道でも幸せに変えることができるから」
   それが旅立つ娘への母の言葉でした。
    幸せかどうか、未来はわかりません。何が待っているか、わかりません。
   ただ、希望を持って歩いて行く。それが人生だと思います。


    大正6年、山形県の鶴岡市に生まれました。幼い頃に父が結核でなくなり、母の手
   ひとつで育ったのです。母は養蚕技師の資格をもっていて新潟県庁で働き、私は優しい
   祖母の手で育てられました。女に学問は必要無いという時代に、母は苦労して私を高等
   女学校、その後仙台の宮城学院に入れてくれました。そこで日本の女子教育のために
   いらした米国人の2人の先生に、オルガンや聖書やボランティア活動を学んだのです。

    昭和16年、軍国政策で農家の若者に渡満(満州)を推奨し、私は日中の懸け橋に
   なろうと同じ志をもつ男性と結婚して中国に渡りました。満州開拓団とはいえ、中国人の
   土地を二束三文で奪い、中国人を馬鹿にして威張っている日本人が大半で、私の大事な
   仕事は中国人と親しくなることでした。日本語の夜学を無料で開いて日本語を教えるのが、
   中国人と仲良くなる一番の近道でした。はじめは3人から、5人、10人と増えていきました。

    ただ、びっくりしたのは、どの中国人も言葉が乱雑なことです。「おまえ、どこから来た」
   とか。当時、日本人はこんな乱暴な言葉で喋るんだなと、それが本当に日本語だと思って、
   真似をしているのだろうと夫と話しました。私は、しっかりした日本語を教えてあげなくては
   と思いました。少しでも相手に響くように、心して話すようにしました。

    昭和20年8月9日、突然爆弾が落ち、ソ連の裏切りで戦争になりました。開拓団は襲撃
   され、男は銃殺され、女は外出禁止令になり、逃げる身に。ソ連兵は、日本人の家に入り
   込んで、何でも自分のほしいものを捕っていき、最後は少女たちを連れていきました。
   私はその時7ヵ月の身重で、ソ連兵が毎日のように入ってくるような環境で、男の子を出産。
   夫は日本人難民の世話に奔走していました。8月15日日本が負けたという放送があった時、
   親しくしていた中国人が走ってきて手を握って、国がどうあろうと私たちの愛は変わらないと
   言いました。

    土地を略奪された中国農民の怒りとソ連兵の二重の襲撃で、開拓団は過酷な逃避行を
   強いられ、飢えと病で次々と死んでいきます。毎日死体がリヤカーで運ばれていき、校庭に
   1000個の墓を掘っても、それもひと月でいっぱいになりました。
    昨日会った人は今日はいません。

    昭和21年ようやく帰国が始まり、夫は残って避難民の一人一人に住所、氏名、遺書を
   書かせ、必ず皆さんの家族に送り届けると、その人達が全員息を引き取るまで看病して
   回りました。私が引き揚げてから、夫の持ち物は遺族の住所と名前と遺書だけでした。

    戦争ほど恐ろしいものは、それ以上のものはありません。どんな国の人でも、心ひとつで、
   愛があれば、親友になれる。中国にいて、愛は国境を超えることをつくづく知りました。
   平和になるには、お互いを愛し合うことです。

    前に(2月)ここでお話したときに、盛岡から来た小学校5~6年の女の子が、皆出征する
   ときにバンザーイという。涙をいっぱいためて、戦地に行く。万歳はほんとうはうれしい時に
   使う言葉だけれど、なぜ万歳を言わなければならないのでしょうという質問がありました。

    万歳を言わなければならない、そういう世の中なのでしょうね。出征するときに、泣きながら
   でも言わなければならない。戦争だけは、絶対にやってはいけない。戦争をやってからでは
   遅いから、戦争をやる前に、皆の方から声を出して言うべきです。召集令状が来るような
   国にならないように。それは、心に覚えておかねばならないと思います。
                                 (9月25日 三田照子さんのお話会より)

            無題.jpg(中野由貴さん提供)
 
    三田照子さんは、ご長男の三田望さんに手をとられて、ゆっくりと歩いて席へ。10枚程の
   原稿を用意されて、約1時間はっきりとした口調でお話をされました。その後、望さんの補足
   説明があり、実はこの日は偶然にも照子さんの満99歳、数え100歳の誕生日でした!
   大きなバナナケーキと花巻キリスト教会さんからの花束で、皆でお祝いをしました。

    4年前、94歳で出版されたご著書には、少女時代のお話、満州での戦争体験、戦後の
   暮らしなどが情景豊かに書かれ、その記憶力と文章の上手さにびっくりします。それは、昔、
   女学校の月謝をなくしてしまったときに、しくしく泣いていたら、お母さんが、「泣いてないで、
   今の心境を書きなさい。本当の気持ちがわかるでしょう。書いて先生に提出しなさい」と
   言われて書くようになり、読書好きになったのも、お母さんが新潟県庁にいる間、毎月本を
   送ってきたからだとか。

    お母さんは、明治生まれにしては珍しくすごい読書家で、86歳で亡くなるまで勉強もして
   いました。戦後、新憲法に変わった時に、その頃は女の人は新聞を読まないので、皆が
   わかるように平和憲法の大切さを講演して歩いた方でした。

    照子さんは、明日のお米がない戦後の厳しい暮らしの中でも、国が見捨てた避難民の
   世話に奔走する夫を誇りに思い、やりくりして宿代を渡します。でも、文章からはそんな
   苦しい様子が感じられません。望さん曰く、「お母さんゆずりの性格が大きいかな。
   基本的に、楽天的なんですよ」  ・・・よおし、わたしも明日から楽天的になろう~!?

   ※夫の三田善右ヱ門さんが中国での戦争体験と敗戦後の姿を記録された貴重なご著書
    「光陰(こういん)赤土(せきど)に流れて」を、おいもで販売中!1000円



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